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「写生」――《メドゥーサ》の「驚き」  岡田一実

くもの糸一すぢよぎる百合の前 高野素十 桔梗の花の中よりくもの糸 〃  素十俳句における「客観写生」とは、「第三者的視点で書く」ということではない。対象に向かい、深く観照した先に得られる選択的な直感を、人間的でウエットな情の直接的叙述から距離を置いて叙することで、一般性や普遍性を獲得してみせる試みだったと思われる。ロマン主義的な「文学的意義深さ」に分け入らず、寸前で留まることで、通俗的で陳腐な情感から逃れようという試みだ。素十は「客観」を、膠着的でコンスタンティヴなものではなく、創造的で類推的でパフォーマティヴなものとして捉えていたのであろう。故に自由な闊達さがある。    前句、客観的ではあるが、美的に構成的な緊張感が宿る。対して、後句は構成的であからさまな作者の意図から脱し、理想美からもメッセージ性からも遼遠なる、ある種不気味で非理想的で非調和的な世界である。素十の書き方の多くは、水原秋櫻子が「文芸の真」と対置した「自然の美」などではなく、本質から大胆に書くものである。つまり書き方の技巧の極致だ。しかし、「写生」としてより不穏でノイジーな現実を捉えたのは、むしろ技巧が際立たない、後句のような句である。      書き方において、構成的と言われる山口誓子はどうか。     電柱のみな明るむや月に向き 山口誓子 泳ぎより歩行に移るその境 〃      一般的に、認知は、道具的価値、つまり、おそらく生存に役立つ概念を、点から点に移るように自然に背景化している。実在は点と点の間にも続いているのに意識されない。その点と点の間を言葉によって意識化させ、現前化してみせることで、新鮮な感覚を呼び覚ます。中期以降の誓子の試みは、むやみに点と点の間を埋めるのではなく、驚きという情動の到来を感受する閾値を下げて、構成的でありながら、只事すれすれにミクロの崇高を見出す、という志向だったと思われる。誓子は「即物非情」と言い表したが、理想世界から零れ落ちた事象を拾得する点においては、「写生」との交差を見出せる。      柳元佑太は、〈現実の「オブジェクト(=物)」が完全無欠なものであり、イデアであってそれに対して言葉がいくらかの欠損を...

いっときを我は人にて 池田澄子俳句の《私(わたくし)》 岡田一実

 池田澄子の俳句の核の一つは「世に在ることへの戸惑い」である。自ずと人称代名詞《我・私》という語彙が俳句に数多く表出する。《我・私》を深く洞察し、ときにドライに俯瞰する多様な視点が各句集に通底して現れている。多彩な《我・私》がある不思議を初期作品から順に見ていきたい。   第一句集『空の庭』 呼んでいただく我名は澄子水に雲 名付けられる不思議は度々テーマ化される。〈寝返りをうつや自分の名を思う〉(『いつしか人に生まれて』)〈余震のあとのイケダスミコとゼリーかな〉(同)〈スミレタンポポこの期に及び我に名あり〉(『拝復』)。自分の名前は自分で決められるわけではない。我々は生まれたときから名前という言葉を通じて他者と関わっている。呼ばれることで、授かりものとしての自分の名前がなお一層生きてくる新鮮さを味わう。   第二句集『いつしか人に生まれて』 いざよいの我待ちの膝のすーすー 《我待ち》と繋げて読めば、十六夜の何処かより《我》が到来するのを待っているかのようである。衣を通さず風が通っていくような肌感覚で《我》の不在をモノである膝が捉える。 別の私へ遺す未生の鬱金桜 《私》は一つとは限らない。自分が死んでも、別の自分もいるかもしれない。そのときは、未だ生まれざる鬱金桜を遺す。別の《私》はそれを咲かすかもしれない。それはいまそれを遺す《私》にはわからない。   第三句集『ゆく船』 私をあやしそこねて炒り豆腐 あやす行為は主に幼少の者に向けられるが、《私》に向け、且つ、それをし損ねる。自分の中の幼さと、それに対置する大人の《私》。大人の《私》が勝るとは限らない。 むささびに如何な筋力わたしは寝るわ 鼯の身体・筋力。ふと思いを馳せるが、それとは無関係に行為遂行的に寝ることを断言する。   第四句集『たましいの話』 有り難く我在りこぼす搔氷  「有り難く」は「あることが難い・めったにない」という意味をこめた感謝の言葉だ。縁があって《我》が在り、縁があって不器用にも「搔氷」を零す。 目覚めるといつも私が居て遺憾 《私》が《私》から逃れられているのは夢の中にいるときだけかもしれない。目が覚めると、また《私》という自意識が始終ついてまわる。 刺した蚊と痒い私...