いっときを我は人にて 池田澄子俳句の《私(わたくし)》 岡田一実

 池田澄子の俳句の核の一つは「世に在ることへの戸惑い」である。自ずと人称代名詞《我・私》という語彙が俳句に数多く表出する。《我・私》を深く洞察し、ときにドライに俯瞰する多様な視点が各句集に通底して現れている。多彩な《我・私》がある不思議を初期作品から順に見ていきたい。

 

第一句集『空の庭』

呼んでいただく我名は澄子水に雲

名付けられる不思議は度々テーマ化される。〈寝返りをうつや自分の名を思う〉(『いつしか人に生まれて』)〈余震のあとのイケダスミコとゼリーかな〉(同)〈スミレタンポポこの期に及び我に名あり〉(『拝復』)。自分の名前は自分で決められるわけではない。我々は生まれたときから名前という言葉を通じて他者と関わっている。呼ばれることで、授かりものとしての自分の名前がなお一層生きてくる新鮮さを味わう。

 

第二句集『いつしか人に生まれて』

いざよいの我待ちの膝のすーすー

《我待ち》と繋げて読めば、十六夜の何処かより《我》が到来するのを待っているかのようである。衣を通さず風が通っていくような肌感覚で《我》の不在をモノである膝が捉える。

別の私へ遺す未生の鬱金桜

《私》は一つとは限らない。自分が死んでも、別の自分もいるかもしれない。そのときは、未だ生まれざる鬱金桜を遺す。別の《私》はそれを咲かすかもしれない。それはいまそれを遺す《私》にはわからない。

 

第三句集『ゆく船』

私をあやしそこねて炒り豆腐

あやす行為は主に幼少の者に向けられるが、《私》に向け、且つ、それをし損ねる。自分の中の幼さと、それに対置する大人の《私》。大人の《私》が勝るとは限らない。

むささびに如何な筋力わたしは寝るわ

鼯の身体・筋力。ふと思いを馳せるが、それとは無関係に行為遂行的に寝ることを断言する。

 

第四句集『たましいの話』

有り難く我在りこぼす搔氷

 「有り難く」は「あることが難い・めったにない」という意味をこめた感謝の言葉だ。縁があって《我》が在り、縁があって不器用にも「搔氷」を零す。

目覚めるといつも私が居て遺憾

《私》が《私》から逃れられているのは夢の中にいるときだけかもしれない。目が覚めると、また《私》という自意識が始終ついてまわる。

刺した蚊と痒い私とうすら寒

蚊には蚊の道理があって血を吸いに来る。刺されれば痒く、不快に思う《私》がいる。「うすら寒」が両者を対等な緊張感で包む。

 

第五句集『拝復』

桜さくら我よ息せききる勿れ

自分のこと自分でコントロールできる部分はほんの一部で、急く息などはまさに制御が難しい。肉体の《我》に意識の《我》が《我よ》と呼びかける。

 

 

第六句集『思ってます』

昨日のわが嘆きなつかし秋の雲

気分は流動的であり、いま嘆きのときであっても、次のときにはもうシリアスに感じられなくなることもある。

わが句あり秋の素足に似て恥ずかし

いつまでも夏の気分でいてはいけないと、誰に咎められるわけではないのに思う。秋にうっかりと素足でいるように、うっかりと《私》が出てしまう自分の句に対しての含羞である。

 

  第七句集『此処』

私生きてる春キャベツ嵩張る

《私生きてる》という直截的な感慨の措辞が深く響く。春キャベツは空気を沢山含んでふんわり巻く。生きていると、この春キャベツがふんわり瑞々しく嵩張ることにも出会える。

 

おわりに

池田澄子の俳句を一人称に着眼して鑑賞してきた。《私》が在ることを不思議に思い、《私》が思うことを不思議に思い、《私》に見えない世界を疑い、《私》に見える世界を不思議に思う。めったにないことに授かった《私》や《私》の名。そういう一切の不思議を昇華するために、措辞として一人称代名詞が使用される。意図的に一人称代名詞を使うことで、俳句では透明化されがちな《私》そのものを描き出している。宇宙的な時間で考えれば、《私》などはそのいっときの存在かもしれない。いっときを、嘆き、楽しみ、飽き、恋う。その普遍性を池田澄子は一人称代名詞で焙り出す。

いっときを我は人にて冬の月 


初出:『俳句界』2022.11 特集「人称代名詞の効果」

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