「写生」というビッグ・クエスチョン

  『現代思想』二〇二四年一月号の特集は「ビッグ・クエスチョン」であった。この特集の惹句には〈ビッグ・クエスチョンはあまりにも「大きい」がゆえに、その前ではあらゆる人が平等とならざるをえない。さらにこれらの問題の途方もない「大きさ」は、人々を対話へとうながす〉とある。

 「写生」とは「実際の景色、事物などを見たままに絵に写し取ること」という美術用語である。東洋画論における「写生」の手法は、近世初期には日本に取り入れられているが、一般に気韻や写意を旨とした。明治初期、東京美術学校に外国人教師として赴任したイタリア人画家であるフォンタネージュによって「写生」は画家教育にもたらされたが、なお「生命を写す」意で用いられていた。生来絵画へ愛好の念が深かった正岡子規は、下山為山や中村不折・浅井忠等の洋画家から示唆を受け、詩歌に転用した。現代の俳句世界において「写生」は、「写意」も「写実」も「ノンフィクション」も「嘱目」も混淆した意味で用いられている。

 この、「写生」という概念が混沌化している現代の俳句界において、「あなたにとって『写生』とは」という問いもビッグ・クエスチョン」と呼べよう。『里』のアンケート結果をもとに、「対話へうながす」ように論を進めたい。

一.記述的判断と評価的判断

 記述的判断とは、対象がもつ価値中立的な特徴を述べるものだ。典型例は、郵便ポストを見たときに「これは赤い」といった判断である。一方、評価的判断とは、価値を捉える心の働きで、良いか悪いかを判定するものだ。「あなたにとって『写生』とは」という問いに対して、「良い『写生』とは/良い『写生』以外は『写生』ではない」と自動的に変換されて認識する事態も評価的判断といえよう。

二.「写生」の主体

 アンケートのなかでまず取り上げたいのは、記述的判断を試みたものである。〈臨場感と質感をもたらす現実と遭遇するための認識 青木亮〉〈思い込みを避け、描写に重きを置く創作態度 浅川芳直〉〈言語芸術のための一つの方法 角谷昌子〉〈世の中につながるきつかけ、動機 北大路翼〉〈描寫・敍述の方法論 堺谷真人〉〈言語化すべくつとめること 佐藤文香〉〈realisticな描写 筑紫磐井〉〈虚像のリアリズムを言葉で探求すること 中田剛〉〈五感全て感じたことを言葉で表現するもの 西村和子〉〈わたしが感覚した現前の再現をことばでめざすもの 橋本直〉〈技法というより心構え 山内将史〉〈「芸術世界」への接触を試みる行為 山田露結〉。記述的判断、いうなれば定義を目指すことを試みた言説から立ち上がるのは、「認識」「態度」「方法」「動機」「探求」「描写」「表現」「心構え」「行為」といった、作者の立ち位置から得られる志向である。「あなたにとって」という問いかけが、多くの俳人の内省的写生観を引き寄せたために、作者主体の記述的判断となった可能性もある。だが、高山れおなが〈眼前嘱目を詠むのが本来だろうが、本当にそうなのか、脳裏に再構成したものなのかは実は識別できない〉と指摘するように、読者にとってはその句が「写生」句か否かは識別が困難である、という前提が作者に共有されていることによって、導かれた判断なのかもしれない。

三.「写生」と読者

 一方で、鴇田智哉は〈五感に得たありようや像を“できるだけそのままだと感じられるよう”作者が言葉に固形化し、それが“できるだけそのままだと感じられるよう”読者のうちに解凍されること〉と、読者における効果までを含める。岸本尚毅は〈「写生」の議論が必ずしも作者側だけで完結するとは思わない〉と述べている。つまり、作者主体の志向を超えた、読者の領域まで「写生」の範疇とすることを要請している。ここに、評価的判断への乗り出しが感じられる。読者を巻き込まなければ「写生」ではないというわけだ。

 柳本佑太は「写生」は二つの錯覚を経なければ成立しないと言う。すなわち、インクの染みあるいは音の波であるところのシニフィアンが、イメージや表象であるところのシニフィエと自然に結びつく錯覚と、そのシニフィエが現実世界の指向対象そのものであるという錯覚だ。その上で、柳元は「自然言語的な二重の錯覚を経て、インクの染みが現実の風景や事物のようにありありと感じ取られる。これらの錯覚をスムーズに引きおこすことを志向するものが写生である」とひとまずの定義をしている。(柳本佑太「写生という奇怪なキメラ」)。しかし、文化のなかでしか生まれない私たちが、まっさらな「自然人」のように、純然たる「錯覚」をしているとは言えないだろう。「錯覚」にも度合いが存在し、文化ごとに傾向性があることは否定できないのではないか。その傾向性が「読者」を想定し、要請さえする根拠となっているのではないだろうか。

四.五感を含む「経験」とは何か

 〈四季の萬物の相を見て、その中からある映像を取出して來る事 高浜虚子〉。虚子を初めとして多くの俳人が視覚を中心とした五感をキーワードとしている。五感を含めた「経験」とは何だろうか。

 クロノスタシス、タキサイキア、ポストディクション、多種多様な仮現運動など、「主観的」現在はさまざまな「錯覚」にまみれている。長短は揺らぎ、同期は歪み、動いていないものが動いて見え、また逆も然り。ほとんど何でも起こる。まさにこの縦に開いた現在の窓の中で、多数の要素が手探りで互いを制約し、次第に事象の時間的かたちを確定していく。 確定が済むまでの未完了プロセスが、この現在という時間単位の「亜周期」 で起きている。

 考えてみてほしい。毎秒数回のサッケードで眼球は跳び回り、その都度数10ミリ秒のブラックアウトを挟む (止まっている間も固視微動がある)。望ましい色と解像度を備えるのは中心窩近傍のみ。画角のズレたそんな二枚のピンぼけ画像から、ヌルヌル動く高精細の世界を再構成するという途方もない不良設定問題を、絶えずリアルタイムで解き続けるのが、「経験」を作る未完了相(亜周期)の仕事である。つまり、我々の経験はいつも「作りかけの最中」にある。確定していると思う時には、もう振り返っている(完了相)ことに気づかねばならない。(平井靖史「時間とは何か? スケールとアスペクト時間論(1)」『現代思想』特集「ビッグ・クエスチョン」、青土社、二〇二四)

 「クロノスタシス」とは、秒針が通常より長く止まっているように見える現象である。「タイサイキア」とは、緊急時にスローモーションで見える現象である。「ポストディクション」とは、後からの刺激が前に影響する現象である。「仮現運動」とは、適切な間隔で交互点滅するライトは移動しているように見える現象である。平井は、現在に見聞きしているあらゆる経験は、この現在の窓の中で絶えずなんとかやりくりして(=折り合いモデル)捻り出している、その最中が「未完了相」であるという。「ポストディクション」のように後からの刺激が前に影響する事態まである混沌のなかで、私たちは、エディントンが「時間の矢」と名付けた時制tense的な把握に落とし込むようにして「経験」を実感化しているのかもしれない。

五.「経験」のあとに言葉がくるのか

 多くのアンケートの回答群は、五感などの「経験」のあとに言葉がくることを支持する。しかし、「経験」が時間の折り合いモデルをとるならば、言葉の記憶はどうか。

 飯島晴子はホトトギス派の俳人との吟行の思い出を記している。睡蓮の蕾を見て「これはホトトギス流の句になる瞬間だ」と確信した。ホトトギス俳句の魅力は〈全くとるにたりないトリビアルな事が述べられている言葉の向こうに、妙に確かに、水のような空気のようないつまでも終らない一つの世界の舞っている〉ところだと晴子は解釈する。しかし、そのような魅力を自作に帯びさせることが出来なかった。その事の次第を、同行のホトトギス派の俳人に説明して自作を見せたところ「そういうとき、私が成功するとしたら、見るのと言葉とが一緒にでてくるんですね」と応えたという。それを聞いた晴子の衝撃はこう記される。

 これは私にとって啓示的な一言であった。大きく私のなかで閊えていたかたまりが、一挙にとれた気がした。コロンブスの卵のような当り前のことに目が開いたのである。それは、私などのように、仮の相手としての言葉に拠って言葉を手に入れようと、ホトトギス派のように仮の相手としての事物に拠って言葉を手に入れようと、とにかく言葉が言葉になる瞬間は無時間であり、従って無意識であるという点では全く同じであるということであった。もっともそれは、人類らしき生物が言葉らしき音を発したときから今までの悠久の時間が一挙に蒸発したような無時間であり、人類の意識の総和を投入することによってのみ埋め合せのつく無意識であるのかもしれない。一人立ちして生きもののように、或る世界を展いていくエネルギーのある言葉は、こういう理不尽ともいえる現れ方でしか現れないということであった。(飯島晴子「言葉の現われるとき」『俳句発見』永田書房、一九八〇)

 晴子は〈無時間〉と表現したが、これはむしろ時間のなかで起こる現象なのではないか。

 わたしはバラの匂いを嗅ぐ。すると、たちまち幼児期の漠然とした思い出 (souvenir) が記憶に立ち戻ってくる。しかし、実を言うと、これらの思い出はバラの香りによって喚起されたのでは決してない。私は匂いそのもののうちにこれらの思い出を嗅ぐのである。私にとっては、こうしたことすべてが匂いなのである。他の人ならば、別の仕方で匂いを感じるだろう。(平井靖史『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』青土社、二〇二二)

 ベルクソンの引用だが、平井は詩的レトリックを弄しているのではなく、記憶が知覚に入り込む場面(注意的再認)の話をしているのだという。後で思い出されることになる「幼児期」のエピソード記憶が、初めてのバラの匂いの知覚のうちに、タイプ的イメージという形で先回りして忍びこんでいるというのだ。言葉についても同様のことが言えはしまいか。「間テクスト性」という概念を導入するまでもなく、言葉の記憶が知覚のうちに先回りして忍び込んでいるのではないか。言葉の記憶を知覚のなかに察知したから、それの潜在的介入・示唆を受けたのではないか。

眺めているうちに五七五のリズムにのせてみようと考える 大西朋〉〈視覚、聴覚、触覚、味覚以外からも何かを得て、書き留められたら 中山奈々〉〈俳句を書こうとしていく瞬間に、作句の対象(わたくし自身を含む)とわたくしとの間に介在する無意識の相互作用の可能なかたちの一つ 花谷清〉こういった回答は言葉やそれ以外の記憶が、五感を先取りしている可能性を示唆しているようにも読める。

 そして、問いは循環する。「写生」にとって作者/読者とは何者なのだろうか。「ありのまま」とはどういう意味なのだろうか。「写生」にとって言葉とは何なのか。「写生」において想起とは何なのか。対話の価値がある開かれた問いが残り続ける。

(初出:「里」2024.2 「写生幻想」)


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