山本健吉が「低調」と評した大正「客観写生」俳句を読んでみた 岡田一実
山本健吉は『定本現代俳句』において「大正初期と四Sとの間に、低調な無個性・無感動の時期が存在する。代表的な作家として、西に丹波の酒造業者西山泊雲と、東に大審院鈴木花蓑とがある。辛うじてこの二人を挙げうるのであって、それに続く池内たけし・野村泊月・田中王城・鈴鹿野風呂などになると、その低調さ・安易さ・月並みさは読むに堪えぬ」と記した。この六人の俳人の俳句は平井照敏編『現代の俳句』にも入集されていない。小西甚一著『発生から現代まで 俳句の世界』ではこの時代を指して「実質的には花鳥諷詠の狭い世界のなかで沈滞し、新しい世代を惹きつける積極性はどこにも見られなかった。俳句は微細な事象を客観的に描写するものだとし、人事でも春夏秋冬の風景と同様にながめ、人生観の介入を拒否して、閉鎖的な趣味のなかで写生することだけが肯定された。俳句作りと隠居の盆栽弄りとは、本質的に差がなかったのである」と否定的に評した。
『定本現代俳句』、『現代の俳句』、『発生から現代まで 俳句の世界』、この三書は筆者も含め現代の多くの俳人の初学の座右の書ではないだろうか。それにここまで書かれる(あるいは無視される)と、読まずに「読まなくて良い俳句」と判断してしまうことも多いように思う。少なくとも筆者は昨年までそうであった。意識が変ったのは伊藤敬子著『鈴木花蓑の百句』を読んでみて描いていたイメージと随分違うと感じたからである。この時代の「客観写生」が目指した高みとは何だったのだろう。個別に読んで味わいを探ろうというのが本稿の目指すところである。
西山泊雲『泊雲句集』
①
簷雫いよ〳〵しげし涅槃像
②切籠(きりこ)左に廻りつくせば又右に
③早苗とる手元に落ちて笠雫
④青萱に落ち漂へる枯枝かな
⑤輝きてすれ違ふ雲や月の面
⑥山越しに濤音聞ゆ十三夜
⑦北嵯峨や萩より抜けて松の幹
⑧落穂干すや日に傾けて笊の底
⑨風の月壁はなれとぶ干菜影
⑩菜畠へ次第にうすき落葉かな
山本健吉は泊雲の俳句を「没主観の写生主義であり、句柄も鈍重で冴えたところがない」と酷評した。しかし、もの言いたげな主観が少ないからこそ、読者の領分の多い味わいとなっている。腰を据えた把握と韻律が確かで格調のある文体を「鈍重で冴えたところがない」とするのは不当なのではないだろうか。現場の偶然から美を見届けようという意思は強く、多くの人間が見過ごしてしまうような華美過ぎない僅かな妙味を描いている。④⑤はそれぞれ高野素十の〈漂へる手袋のある運河かな〉〈鰯雲はなやぐ月のあたりかな〉に引き継がれていった語彙と感覚であったと思われる。
鈴木花蓑『鈴木花蓑句集』
①灌佛の人の中なる柱かな
②石鹸玉柳の風に後じさり
③枝垂梅空へも枝の殖え伸びて
④蓮の風立ちて炎天醒めて來し
⑤霧の中翡翠飛んで失せにけり
⑥柱鏡に紫陽花狭く映りけり
⑦夕顔鉢を夕顔棚の下に又
⑧蜻蛉やいざりながらに鱗雲
⑨朝顔や静かに霧の當る音
⑩團栗の葎に落ちてくゞる音
花簔は泊雲より更に粘り強く現場に留まり、その留まっている時間そのものを含めて描いている。代表句である〈大いなる春日の翼垂れてあり〉〈流し雛堰落つるとき立ちにけり〉も粘り強い観察の末の比喩であり、発見であろう。①の「灌佛」の概念からは外されている「柱」の発見、⑦の「夕顔鉢」を手に取ってみてそれをまた「夕顔棚」の下に戻したという只事に近い些事から引き出す僅かな情緒などは観照に留まりつづける才能があったが故に見出された感覚であると思われる。山本健吉は『鈴木花蓑句集』について「全体としては客観写生風の低俗句の羅列であるが、その中に少数の感覚の冴えた、凝視の利いた写生句が交じっている」と評したが、筆者の読むところでは、高野素十『初鴉』に匹敵するとは言わないまでも、それに近い名句集の一つであり、「低俗句の羅列」のようには思われなかった。特に⑩などは「客観写生」俳句の非意味性から見てひとつの芸術的到達点ではないだろうか。
①來り見る人に面あげ菊根分
②仰向きに椿の下を通りけり
②
芽の出でゝ葉になることも慌し
③
土くれにぺん〳〵草の花咲けり
⑤萌え出でゝすかんぽの葉は泥まみれ
⑥竹床几道頓堀は祭かな
⑦日覆の外の日向に乾飯かな
⑧啄木鳥やつゝきのぼりて幹がくれ
⑨雨降れば濡れて乾ける桐一葉
⑩枯枝のひつかゝりゐる枯木かな
泊雲や花簔は現場への粘りを句に残しているが、たけしは現場ベースでありながら淡泊に描いた。寸の機微のあと白白と無が広がるような読後感だ。④⑤のように淡々と描写の筆圧の弱い、巧さを見せつけない句はともすると生硬だと思われがちだが、一粒の塩の如き味わいがある。②は椿を賞する心を〈仰向きに〉と動作のみで描き、晴れやかさが広々と読者に伝わる。ただ、動作のみで伝えようとした句は成功していない例も多く、〈萌えかゝる甘草かとも近よりぬ〉〈道端に蓬摘む野を通りけり〉などはことの報告として深みが足りない。
野村泊月『定本泊月句集』
①雨だれの揃うて長し春の雨
②樋の口を迸り出し椿かな
③はるかなる濤のうねりに春の月
④濯女に汀の一樹藤を垂れ
⑤みめよくて流人の裔やもづく採る
⑥ひそやかに尼の水仕や額の花
⑦霧深き夕べを鳴けり岳鴉
⑧馬の背に清水の杓を受取りし
⑨霧晴れて尚遙かなりお頂上
⑩一すゝりして皺みたる熟柿かな
泊月は泊雲の弟で兄弟揃って大正「客観写生」の徒と把握されることが多いように思う。しかし、較べてみると随分と資質が異なる。泊雲や花簔は人間の認識と認識の隙間にあるエアポケットの如き意外な一面を認識下に曝すような作句方法を見せ所としたが、泊月は現場感を重視しながらも観察したものを自分の認識の理想化にやや寄せて作句しているように見える。①の〈揃うて〉、②の本意本情に近い「椿」、③の海と「春の月」などである。⑤は〈流人の裔〉が予備知識として働いていよう。虚子は「写生といふものは、親しく景色に接触してそれからヒントを得ることが目的のやうではあるけれども、畢竟私たちの頭に出来て来る影即ち別個の天地が肝要なのである。私たちはその別個の天地をはぐくみそだてそれを俳句にするのである。そうして広く実物に接触するとその別個の天地を創造する事が容易であり又清新であるが為に、写生ということを力説するのである」(『写生俳話一則』昭四.八)と緩やかに「写生」を制縛し説いた。そういった意味においては泊月が「写生派」であることは間違いない。彼の描く「別個の天地」は平明でかつやや古典的情趣に寄せてあり、安定感があってわかりやすく、大正『ホトトギス』の人々に受け入れられやすかった側面もあろう。それが作句方法として一筋の流れをなし、外部に「低調・安易・月並み」や「花鳥諷詠の狭い世界のなかで沈滞」のような印象を抱かせてしまった可能性もある。
田中王城『王城句集』
①焚火煙一渦上げて燃え出でし
②月明や油鳴りして燈籠の灯
③櫻餅たてこむ中にたうべけり
④寶前へ音羽の月のさしわたり
⑤杓のぶる深雪の中の手水鉢
⑥花屑のしづかにとぢぬ鯉のみち
⑦笠深くさ中の雪に行かれけり
⑧松山や眞つすぐに降る春の雨
⑨秋雨や灯をさしつけて迎へらる
⑩竹伐るやうち倒れゆく竹の中
たけしを「淡泊」とすると、王城の持ち味は余白美にあろう。言葉を抑えて豊富な余情をしっかりと利かす。②は刹那の音がより静けさを深く感じさせるのは俳句では芭蕉以来の古典的な美かもしれないが、二つの光源があることで微妙な質感を醸し出す。④「寶前」と「音羽」という選ばれた情報の量、⑤⑧⑩図案化されたような単純美も余情が深い。王城は人事を詠んだ句にも佳句が多く③⑦⑨のように濃やかな情感を描くことができた。一部、余白を利かせすぎて味わいが淡すぎる句もあるが、王城の佳句は円山応挙の「虹図」などに見られる読者の想像が最大限に引き出されるような描きぶりと似る。
鈴鹿野風呂
①雪洞の影なげ合ふや雛の段
②蝶つまめばこまかき趾をよせにけり
③赭土の段々畑や桃の花
④灯のさせるところ眞靑き蚊帳かな
⑤外風呂の火明りに蟇一歩しぬ
⑥昃ればすなはち暗き靑柚かな
⑦釣荵水かけられて動きけり
⑧讀める灯を厠に向けぬ蟲の宿
⑨落日や築土に長き鷄頭影
⑩葉鳴らして蕪の土をふるひけり
野風呂の一番の特徴はその鋭敏な色彩感覚であろう。③の赤の階調、④の灯った青、⑥の日の当っていた時と色が違う青柚、そのような繊細な色の変化を感知し描くことができた。光の感受性も高い。①④⑤⑥⑧⑨はそれぞれ火/灯/日の光だが、差異をしっかりと捉えている。野風呂の句の中心を支えているのは「感動」であると思われる。それは一般的に思われるような人生にかかわる「大感動」ではなく、僅かな驚きなどの一閃の心の動きだ。それを逃さずに平明に書こうという意思が俳句作品からひしひしと感じられる。認知の閃きのような「感動」は現在の読者にとっても新味があるであろうし、その中に普遍性を見出すこともできよう。
大正「客観写生」俳句を無個性で無感動な些末主義で人生観の介入がない、と切り捨てるのは簡単である。際だった個性や大感動、人生観を華麗な文体で描く俳句と較べると確かに地味な味わいかもしれない。しかし、最短詩型といわれる俳句において、究極的に「目的」を削いでいくことに美を見出し、味の濃い華やかな技巧を避けて直に世界と触れ合おうとした当時の俳句作品の表現は現代の読者にとっても十分に価値のあるものだと思われる。小田部胤篤はジャン・フランソワ・リオタール論においてリオタールの崇高論の特徴は「崇高なものは『最小のものから作動する(opperer ex minimis)』」点だと指摘した。大正「客観写生」俳句の理念がリオタールの理念と完全に一致しているわけではないが、重ね合わせて思い出される言説である。
参考文献
山本健吉著『定本現代俳句』(角川書店、一九九八)
平井照敏編『現代の俳句』(講談社、一九九三)
小西甚一著『発生から現代まで 俳句の世界』(講談社、一九九五)
伊藤敬子著『鈴木花蓑の百句』(ふらんす堂、二〇二〇)
『現代俳句体系』(角川書店、一九八〇―一九八二)一・六・八巻
池内たけし著『たけし句集』(欅發行所、一九三三)
田中王城著/田中八重編纂『王城句集』(田中八重、一九四〇)
鈴鹿野風呂著『野風呂句集』(京鹿子發行所、一九二六)
小田部胤篤著『美学』(東京大学出版、二〇二〇)