旅 岡田一実
二十代の頃、母、父、愛犬と次々に他界した。「悲しみ」と名づけてしまうには複雑な、日々喉を軽く押さえつけられたような感覚を書き残しておきたいと思った。しかし、思いをくどく縷々述べる気にはなれなかった。俳句の分量なら書ける気がしたが、俳句は「季語がある五七五の詩」というくらいの知識しかなかった。歳時記を買い、携帯電話のインターネット機能を主に使って検索し、インターネット句会に参加してみた。辛い気持ちを書くつもりで参加した句会では、「朝の句・昼の句・夜の句で写生句を作りなさい」などと題が出た。「写生? 何のこと?」と検索すれば、高野素十がヒットし、何が良いのかわからなかったが、よくわからないまま「今」のことをよく見て書いた。書いていくうちに、自分の過去を掘り出し、内面の闇をこじ開けて浸っていたときのような辛さは薄れていった。先輩達は優しく、いろいろとアドバイスをくれて、その度に蒙が啓かれる思いがした。
仕事を辞め、次の就職まで間が空いたとき、仲間が「夏井いつきさんの句会ライブが愛媛であるから行ってみては」と教えてくれた。愛媛に行くと、俳句を愛好している人が沢山いて、とても華やかなイベントで驚いた。そこで出会った人と翌年には結婚して、愛媛に移り住んだ。俳句が盛んな愛媛では句会を選べる贅沢さがあった。そのうちに少しずつ句集を読むようになり、読み慣れてくると俄然読むのが楽しくなった。
数年前に高野素十に出会い直した。句集『初鴉』だ。余りに面白くて、本を読んで言葉の面白さから想像で俳句を作るような机上派に近い作り方から、現場派・吟行派に転身した。素十が高浜虚子の選のもとで目指した「客観写生」とは、一般に思われるような「第三者的視点で書く」ということではなく、主観的な直感を人間的でウエットな情の直接的叙述から距離を置いて叙することで、一般性や普遍性を獲得し共通理解を拡張してみせる試みなのではないかと思うようになった。素十の書き方は、水原秋櫻子が「文芸の真」と対置した「自然の美」などではなく、本質から大胆に書く筆の技巧の極致だと、改めて思った。この洗練された技巧の高さは易々とは超えられない。では、自分はどう書くか。詩歌に学び、現場に出ることを繰返すという単純な方法しか思いつかなかった。
そのうちに、山口誓子の句集を通読し、感動した。生活していると、一般的に認知は道具的価値、つまり、おそらく生存に役立つ価値のある概念を、点から点に移るように自然に背景化している。本当は実在は点と点の間にも続いているのに意識されない。その点と点の間を言葉によって意識化させ、現前化してみせることで、新鮮な感覚を呼び覚ます。そうした試みを誓子の『激浪』などから始まる中期の作品の中に見た。誓子の試みはやたらに点と点の間を埋めるのではなく、驚きという情動の到来を感受する閾値を下げて、只事すれすれにミクロの崇高を見出す、という志向だったのではないだろうか。書くことのひとつの方向性を誓子俳句は教えてくれた。
なぜ自分は俳句を書いているのだろうとたまに思う。最初の動機は今はほぼない。現場で書いていると、何もかもが一回性を帯びていることがわかる。今日の紅葉は去年の紅葉とも昨日の紅葉とも違う。感受する私も、気分や体調の揺らぎの中にいる。その一回性に近づけて書く。言葉は「目の前にあるものを書き写す」ことなど出来ない、というところから始める。情報構造は定型詩化される際に凝縮され、下位の特徴が潰れる。さらに、「紅葉」と書いたとして、作者の「紅葉」と読者の「紅葉」は絶対に一致しない。重なる部分はありつつ、その絶対的不一致性によって、俳句は読者に開かれている。定型詩化によって生まれる質をどう乗せて書くか。対象の肌理を意識に迎え入れるように感知し、感覚と脳を裏返すように書けないものか。言葉を書く厳しさは、反面、楽しくもある。
句集を読むのは旅のようだ。誰かの時間の流れを追体験しているような幸福な錯覚が、自分の時間の流れのなかに置き入れられる。驚きを与えてくれるのは、大抵は他者であり、他者の観念であり、外部のモノであり、外部の環境だ。書くそのときに作者だけが出会ったただ一回だけの予見不可能な新しさ、そういうことを読みたくて、俳句を読み続けているのかもしれない。そして、結局その旅は、自分の読みたい俳句を自分で書かんとする旅に繋がってしまう。なんと愉しき業なのだろう。
仕事を辞め、次の就職まで間が空いたとき、仲間が「夏井いつきさんの句会ライブが愛媛であるから行ってみては」と教えてくれた。愛媛に行くと、俳句を愛好している人が沢山いて、とても華やかなイベントで驚いた。そこで出会った人と翌年には結婚して、愛媛に移り住んだ。俳句が盛んな愛媛では句会を選べる贅沢さがあった。そのうちに少しずつ句集を読むようになり、読み慣れてくると俄然読むのが楽しくなった。
数年前に高野素十に出会い直した。句集『初鴉』だ。余りに面白くて、本を読んで言葉の面白さから想像で俳句を作るような机上派に近い作り方から、現場派・吟行派に転身した。素十が高浜虚子の選のもとで目指した「客観写生」とは、一般に思われるような「第三者的視点で書く」ということではなく、主観的な直感を人間的でウエットな情の直接的叙述から距離を置いて叙することで、一般性や普遍性を獲得し共通理解を拡張してみせる試みなのではないかと思うようになった。素十の書き方は、水原秋櫻子が「文芸の真」と対置した「自然の美」などではなく、本質から大胆に書く筆の技巧の極致だと、改めて思った。この洗練された技巧の高さは易々とは超えられない。では、自分はどう書くか。詩歌に学び、現場に出ることを繰返すという単純な方法しか思いつかなかった。
そのうちに、山口誓子の句集を通読し、感動した。生活していると、一般的に認知は道具的価値、つまり、おそらく生存に役立つ価値のある概念を、点から点に移るように自然に背景化している。本当は実在は点と点の間にも続いているのに意識されない。その点と点の間を言葉によって意識化させ、現前化してみせることで、新鮮な感覚を呼び覚ます。そうした試みを誓子の『激浪』などから始まる中期の作品の中に見た。誓子の試みはやたらに点と点の間を埋めるのではなく、驚きという情動の到来を感受する閾値を下げて、只事すれすれにミクロの崇高を見出す、という志向だったのではないだろうか。書くことのひとつの方向性を誓子俳句は教えてくれた。
なぜ自分は俳句を書いているのだろうとたまに思う。最初の動機は今はほぼない。現場で書いていると、何もかもが一回性を帯びていることがわかる。今日の紅葉は去年の紅葉とも昨日の紅葉とも違う。感受する私も、気分や体調の揺らぎの中にいる。その一回性に近づけて書く。言葉は「目の前にあるものを書き写す」ことなど出来ない、というところから始める。情報構造は定型詩化される際に凝縮され、下位の特徴が潰れる。さらに、「紅葉」と書いたとして、作者の「紅葉」と読者の「紅葉」は絶対に一致しない。重なる部分はありつつ、その絶対的不一致性によって、俳句は読者に開かれている。定型詩化によって生まれる質をどう乗せて書くか。対象の肌理を意識に迎え入れるように感知し、感覚と脳を裏返すように書けないものか。言葉を書く厳しさは、反面、楽しくもある。
句集を読むのは旅のようだ。誰かの時間の流れを追体験しているような幸福な錯覚が、自分の時間の流れのなかに置き入れられる。驚きを与えてくれるのは、大抵は他者であり、他者の観念であり、外部のモノであり、外部の環境だ。書くそのときに作者だけが出会ったただ一回だけの予見不可能な新しさ、そういうことを読みたくて、俳句を読み続けているのかもしれない。そして、結局その旅は、自分の読みたい俳句を自分で書かんとする旅に繋がってしまう。なんと愉しき業なのだろう。
(初出:『俳壇』2022.12俳壇「新・若手トップランナー」)